「アサヒの歴史とわたし」Vol. 1
若人よ、立ち止まるな、
時を惜しんでアンテナを張れ
だれも見向きもしない道草にこそ
独創的なアイデアの火種がある
中天に燃え盛る太陽もたちまち山陰に隠れる
君が生み出すまで
こんな商品をだれも見たことがない!
そう言って世がどよめく程に
創造的な生き方をせよ!
「アサヒの歴史とわたし」Vol 1
専務取締役 野澤勝雄
私は茨城の農家の十男として生まれました。双子の兄として13人兄弟で生活をしていました。赤子のころ、私たちのミルクが足りないと兄たちが日替わりで往復7kmの距離を行き来して畜産農家まで牛乳を買いに行ってくれていたようです。3丁歩の田畑を耕す父は地元では主導的な立場にありましたが、家では寡黙で私は父に手を上げられた記憶がありません。今でいえば放任主義なのかもしれませんが「自らの過ちは己の力で悟るべし」と言われていると私には感じられました。それでもやんちゃ坊主だった私は、近所の人や学校の先生方にはこっぴどく叱られることもありました。
アサヒの創業社長、野澤彌太郎は私の実兄で上から5番目の兄弟です。責任感が強く家族愛に溢れた兄は、家具屋で技術や経験、情報を習得した後、自分のアイデアと商品で勝負に出ました。当時学習机の上に散乱する本を棚に収めていましたが、そのせいでデスクが狭くなることに不満を持った兄は二階建ての要領で、下のスペースを空けた本棚を考案しました。「ハイラック」と命名された本棚はヒットして、製造委託していた会社の生産が間に合わす、また配達の人員が確保できないことから私に声がかかったのです。私は妻の実家で入出荷の手伝いでトラックの運転をしたり、東京でタクシードライバーをしていた経験を買われたのかもしれませんが、兄弟と仕事をしたいという兄の家族愛を感じたことは言うまでもありません。そのころは注文と出荷のアンバランスから、検品と梱包が間に合わず、私はよく工場に通って箱詰めを手伝い、それをバンに載せて配達に行きました。仕事ばかりの日々でしたが、やる気と志に満ちた楽しい時間でした。
高度経済成長期の真っ只中だった日本社会の中で「新しいものを生み出そう!」とわたしたちは必死に考えながら日々の業務に邁進していました。特に先代社長は「日常のふとしたところに誰も気づかなかった新しいものがあるものだ!誰も見たことの無いものを作れ、だれもしたことの無い仕事に取り組め!アンテナを高くせよ!」これが口癖でした。そんな中、家具を梱包する当てものを生地と綿で作り始めたのです。最初はマンションの1F駐車場の隅を何台分か借りて棚を巡らせ、二本針のミシンで渦巻き状に縫い合わせて作っていました。私は生来手先が器用だったので、製造にも積極的に参加しました。その流れから、柏の工場の責任者、野田の工場では工場長として引退まで働いてきました。
わたしたちの会社の成長は、お客様の要望に真摯に答えるところにあります。そして、その要望に120%で応えるアイデア提案し、さらにそれを形にする、その営みのうちに信頼を得てきました。その代表例が現在のフィットカバーです。家具屋さんからの依頼で、仏壇のカバーを細かいサイズ別にいただく中で、使う側も作る側も1枚で兼用できないかという要望から、ゴムを入れた伸び縮みするカバーを考案しました。もの作りに奔走し、信頼できるたくさんの仲間と苦楽を共にし仕事を続けてこれたことは感謝なことです。社員旅行に毎年行ったり、夜なべをしたり、楽しいことと苦しいことは半々でやってきました。どの一つをとっても良い思い出です。
兄と私は立場も考えも違いましたので、何度も意見の衝突がありました。しかし、それと同時に正直に本音で向き合えていたことも実感します。ほんとうに小さなエピソードですが、ある時車での道中、私はたばこの火をつけようとマッチを探してもライターを探してもありませんでした。そんな時兄は、隣に止まったパトカーのお巡りさんに話しかけ「マッチもらえませんか?」と言いました。お巡りさんも面喰いつつも笑って、「では、このライターをあげるよ!」と兄に渡しました。兄は笑いながら「使え!」とライターをわたしにくれたのでした。なんでこんなくだらないことを思い出すのか、その時わたしは、先代社長の人柄に触れたんだと思います。
わたしは今でもいろいろなものを作り、想像力を働かせ、アンテナを高く張っています。しかし、若い世代がしっかりと育ってきて、今は彼らに新しい創造的な未来を切り開いてほしいと思っています。