会社沿革

9つのストーリー

1965年(昭和40年)

アサヒ商会(東京都荒川区)を創業

(創業者は手先が器用な生粋のアイデアマン)

1957(昭和32)年ごろの創業者・野澤彌太郎。当時の勤務先の大手家具問屋にて。

ハイラックのパンフレット。

プラスUのパンフレット。アサヒ商会のころ。

創業者・野澤彌太郎は昭和4年(1929年)、茨城県稲敷郡朝日村(現在の阿見町)に農家の三男として生まれます。
旧制土浦中学(現土浦第一高等学校)の在籍時に、学徒動員で霞ヶ浦海軍第1航空廠こうくうしょうに配属され戦闘機の製造に携わり、戦時下の厳しい環境下で毎日
朝から晩まで「キサゲ加工」と呼ばれる地味ながらも高い精度を求められる作業を繰り返す、そんな青春時代でした。手の平は血豆が絶えないながらも、本来の器用さと真面目さも相まって、出来上がったパーツは高く評価されたことで「モノづくり」の面白さを知ることになります。

卒業後は役場勤務を経て、昭和25年大志を抱き上京。
叔父の紹介で下町の木工所に家具の配送要員として勤めることになります。
お金も学歴も無く、あるのは若さと体力だけ。「人の3倍働く」ことを心に誓い、時には
1日17時間ガムシャラに働いたことが、強い精神力と自信の根源になりました。

「一念天に通ず」日本橋の大手家具問屋からヘッドハンティングされます。
与えられたミッションは都内の新規営業開拓。その後約14年の間に家具業界のノウハウを徹底的に学び、取締役に昇進します。責任と自覚、マネジメント能力が培われたのはこの時でした。

在籍中に、事務机が書類で埋まり作業スペースが圧迫される様子を見て、書類を机の上に上げてしまう棚付きの机(現在の学習机のようなスタイル)を自ら考案します。
昭和39年東京オリンピックの年に「ハイラック」と名付けて独占販売。2年間で約5万セットを完売する大ヒット商品となりました。この成功が次なる挑戦の大きな確信となります。

アイディアの力を自らで形にしようと36歳のとき独立起業。出身地である朝日村と力強く輝く朝日を社名にしようと決め、昭和40年「アサヒ商会」として事業をスタートさせました。1年後には「株式会社アサヒ」となる会社が産声を上げた瞬間でした。
古巣の家具業界を相手に、さまざまなアイディア商品を開発。ガラス戸や棚を固定する棚板止具「プラスU」「ファニサーブ」もこの頃開発され、これらは50年後の今も家具業界や引越業界で広く使用されています。

スタート当初から当社の製品の根幹は現場からの声に対応し、具現化する「モノづくり」の精神にあったのです。

1969年(昭和44年)

千葉県柏市に柏工場開設

(キルティング製造工場を立ち上げ)

1971(昭和46)年、社員旅行。

1973年(昭和48)年ごろのカタログ。

この頃、家具業界のお客様からは、配送する際に商品をくるむ「あてぶとん」の問い合わせが増えだしました。当時関東にはメーカーが無かったため、大阪から取り寄せて販売をしていたものの、納期は約半年。やっと届いた商品もサイズが違うなどの問題が頻繁に発生したため、思い切って「見よう見まね」で作ってみたところ、これが評判となり注文が殺到しました。

「関東にあてぶとんメーカーが出来たらしい」という噂は瞬く間に広まりました。折りしも大阪のメーカーが倒産したことから、アサヒには電話が鳴りやまないくらいの注文が押し寄せました。2本針ミシン1台ではとても供給には応えられないことから、全財産を投げうち千葉県柏市(現在のおおたかの森駅近く)に自社のキルティング工場の建設を決断します。

アイデアを主力に「モノづくり」は外注に委託していた業態から、本格的に「モノづくり」を手掛けるメーカーとして生まれ変わることになったのでした。

1977年(昭和52年)

現在地に新社屋を建設し本社を移転

(環状七号線沿いに自社ビルを建設)

1977(昭和52)年の本社。

落成式典で、挨拶をする野澤彌太郎。お世話になったお取引先を招いて、本社竣工披露宴をした。

昭和50年代にはいると、従来の主力先であった家具業界全体が不況の波に陥っていきました。しかし、当時急成長しはじめた引越業界に同じニーズを捉え、これまでの家具用のキルティング製造経験を活かし、勢いのある引越業界と共に成長していきます。

昭和52年、足立区に自社ビルを建設し、本社機能と棚板止具の製造部門を集約します。立地条件は物流業者が行きかう環状七号線沿いにこだわりました。信号待ちのドライバーに目立つよう、1Fはガラス張りのショールームを設けました。

1978年(昭和53年)

フィットカバーの誕生

(引越作業の必需品「ゴム入り布団」の誕生)

1985(昭和60)年ごろのカタログ。

特許公報・商標公報。

「フィットカバー」(旧ハイパット)の発売当初のちらし。当時の布地はグリーンだった。

昭和50年代初頭は、仏壇用の専用カバーの注文に追われていました。仏壇にはさまざまな形・大きさがあり、数センチ違いであってもしっかり包むにはそれぞれのサイズに合わせなければなりません。工場長は毎日数センチ違いの商品の製造に追われ気塞ぎな日々を送っていました。

そんなとき、お客様の一言がヒントになり「サイズが違っても一種類のカバーで対応できないか?」というアイディアが生まれました。この火種を実現することに、アイディアマンの彌太郎と、手先の器用さでは誰にも負けない社長の実弟である野澤勝雄(工場長)が燃えないわけがありません。考えたのがキルトを筒状にして伸縮させる大きな腹巻の様な商品でした。縫い糸の一部をゴムにしてやればどうだろうか!?しかしゴムを布地に縫い付けながら収縮させる仕組みづくりや、緩すぎてもキツすぎても駄目な収縮具合の調整は、通常のキルトマシンでは対応不可能では!?何度も何度もキルトマシンを改良し、マシンのメーカーに「無理」と言われても諦めず、部品を変え、縫い方を変え、実現に向けて突き進んでいきました。そして遂に、理想に近いコールゴムを見つけ、ゴムの引きの強さや縫い目の細かさなどを調整し、マシンをカスタマイズし、ようやく誕生したのが「フィットカバー」なのです。

1982年(昭和57年)6月25日特許出願
1984年(昭和59年)1月6日特許登録(公告番号:特公平3-9020)
*商品名は「ハイパット」として1999年に商標登録

「早く綺麗に」「誰にでも梱包出来る」という商品の特性は、引越業界では確実にウケるはずと思ってはいたものの、見たこともない大きな腹巻のような商品には、「こんなもの使えない」「商品が傷つく」「作業性が悪い」など取り入ってもらえず、普及までには思っていた以上に時間を要しました。ジワジワとしかし確実に、その評判は口コミで広がり、大手物流業者の導入が起爆剤となり一気に全国へとその評判が知れ渡ることになりました。

当初からのアサヒオリジナル規格として設定した「長さ」(110サイズ・80サイズ・50サイズ)と「太さ」(Lサイズ(黄色)・Mサイズ(赤)・Sサイズ(緑))は今でも変わらぬ規格サイズとして継続しており、他社が真似をするほど常識になっています。

全盛期には、工場に引取りのトラックが並ぶほど生産に追われ、柏工場のキャパでは生産が追いつかない状況となりました。

1987年(昭和62年)

千葉県野田市に工場を移転

(野田工場(Jキルトファクトリー)開設)

1987(昭和62)年の野田工場。

増産と規模拡張を目的に、千葉県野田市に敷地700坪の土地を確保し、新工場を建設し移転します。大型の製綿機を導入したことで、中綿の製造~キルティング~縫製加工までを外注に頼らず、自社で一貫製作できるようになったことで、原価を抑え、生産性の向上を図りました。

2014年(平成26年)

野澤謙一が代表取締役社長に就任

(創業者 野澤彌太郎が逝去)

新社長とスタッフ一同。

創業者である野澤彌太郎は最後まで社長職としてその任を全うし、平成26年12月に享年85歳で逝去します。創業者の長男であり、長らく社長を支えてきた謙一が彌太郎のスピリットを受け継ぎ事業を継承します。

2015年(平成27年)

創業50周年を迎え、コーポレートロゴを一新

(CI活動と後継者育成へ)

新しいコーポレートロゴ。

50周年を記念して制作したスタッフジャンパー。

2代目となる野澤謙一率いる新体制のもと、創業50周年を迎えることを機に、コーポレートロゴを一新します。朝日をイメージとしたデザインは、創業当時のスピリットである「未来に輝く力強さ」をベースに「日いづる国」としてのJAPAN品質を、グローバルに展開していく強い姿勢であること。また丸みと温かみを持たせたデザインは、お客様との親しい関係性を表現しました。

 

長らく課題となっていた次世代継承の改革として、当時30歳の若い社員を工場長に大抜擢し、五か年計画による人事の若返りを図りました。前工場長は若手スタッフへの技術指導役となり、技術継承に専念します。

2017年(平成29年)

「Jキルト」ブランドを立ち上げ

(ブランディング戦略)

Jキルトのロゴ。

野田工場の外観。「Jキルトファクトリー」の看板を掲げました。

類似品対策と差別化を図るため、企業理念をお客様に伝えるため、海外でも認められる企業になるため、そして社員が誇りを持って仕事をしてもらうために「ジャパン品質のプロテクションキルト」を略し「Jキルト」と名付けました。

 

ホームページやカタログもブランド色の強いデザインに一新したことで、問い合わせ件数が飛躍的に増加しました。

 

野田工場は「Jキルトファクトリー」と名称を改め、新しいコーポレートロゴの看板を大きく掲げたことで、地域のランドマークのような存在となり、工場内の環境も綺麗に整えたことで、多くのスタッフが集まりました。

2019年(平成31年)

海外の展示会に出展

(Jキルトを世界へ)

PROMAT2019(クリックすると動画ページに飛びます)

MOLO2019(クリックすると動画ページに飛びます)

4月アメリカ・シカゴで開催された、北米最大の物流展「PROMAT2019」に出展。

9月ドイツ・エッセンで開催された「MOLO2019」に出展。来場者投票による最優秀プレゼンターに表彰され、念願の海外進出に一歩踏み出しました。